はじめに
「機能不全家族」「機能不全家庭」という言葉、みなさんは目にされたことはありますか?
あるいは、どのような家族のことを意味するのか、具体的なイメージはお持ちですか?
ウィキペディアでは、
「機能不全家族(きのうふぜんかぞく)とは、家庭内に対立や不法行為、身体的虐待、性的虐待、心理的虐待、ネグレクト等が存在する家庭を指す。また、その状態を家庭崩壊(かていほうかい)と称する。」
と記述されています。
確かに、「児童虐待」「家庭内暴力」が存在する家庭は、明らかに「機能不全家族」と言えます。
では、明らかな「児童虐待」「家庭内暴力」が存在しなければ、家族の構成員が社会的不適応を起こしていても、「機能不全家族」とは言えないのか?
そもそも、何をもって「家族が機能している状態」と結論付けるのか?
私は、個人的には、
「親が、当事者意識を持って子供の問題を解決する意欲があり、必要な行動をとっている。」のであれば、まずは「家族が機能している状態」と言えると思います。
では、「必要な行動」とは?
そのような疑問をお持ちになるような、問題意識のある方は、このブログなど読まずに、いきなり下記のメールマガジンの記事本文を読まれたほうがいいと思います。
また、「機能不全家族」という用語や概念に対して、
①「親のせいにするな。」
②「どこの家庭にもその程度のエピソードはある。」
③「では『機能完全家族』なんて存在するのか。ないだろう。」
④「親の責任を問う思考は以前から存在するから、新たな言葉なんか必要ない。」
という反論はよく見かけます。
では、これらの反論から、 子供の抱える問題点を親が当事者意識を持って解決しようとする意欲は感じられるでしょうか。その意識や意欲の欠落こそが最大の問題点なのですが。
このブログでは、機能不全家族について記述された、あるメールマガジンの記事を転載し、それをもとにして、適宜要約や若干の意見を追記していきたいと思います。
そのメールマガジンのタイトルは、「ダメダメ家庭の目次録」というものです。
2003年から2011年にかけて合計1111本の記事が配信され、現在(2012年5月)は配信が終了されているようですが、内容は以下のサイトで公開されています。
(2013年7月15日 URL変更しました。)
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/index_original.html
従来にはなかった新しい視点で、機能不全家族に多くみられる心理的風景を記述しており、このような家族のもとで生きてきたがゆえに生きづらさを抱えている人にとっては、非常に有用な記事であると思います。
ただ、このサイトは、「機能不全家族」「機能不全家庭」という検索キーワードでは上位に抽出されてはきません。もとのメールマガジンのタイトルが、このキーワードを採用していないからです。
そこで、このキーワードをブログのタイトルとして採用するとともに、記事の要約をできるだけ付け加え、なるべく多くの方に記事の概要を理解していただけるようにしたいと思います。より詳細に理解したい方は、記事の本文をお読みください。
「児童虐待」「家庭内暴力」という言葉は頻繁に目にしますが、これらの原因となっている「機能不全家族」という言葉は、マスメディアに取り上げられることはほとんどありません。このブログによって機能不全家族という言葉や概念が社会に広く認知され、この問題で苦しむ人たちへの一助となることを願ってやみません。
言わせない雰囲気(2009年10月26日)
機能不全家族(家庭)とは、会話不全の家庭であると言えます。自分の意見をわかりやすく伝え、相手の意見をきちんと聞くという、相互理解の発想がない。あるのは、「私の言うことを黙って聞け!反論するな!」という一方通行の伝達のみ。だからこそトラブルが発生し、対処できなくなるのです。
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/09-10/09-10-26.html
(以下本文)
よくこんな物言いがあったりしますよね?
「言いたいことがあるのなら、ちゃんと言え!」
この物言いはもっともなこと。
当人が誰かに対して希望があるのなら、それを客観的な言葉にして、直接的に相手に伝えないとね。
陰でブチブチと言ってもしょうがない。
ちゃんと明確な形で相手に伝えることが必要でしょ?
このようなことは、以前に、日本で首相をされておられました麻生さんが、総理になる以前に言っていました。
インタビュー番組で、「ブチブチと文句を言っている彼らは、どうして、明確に言わないんだろう?」そんな疑問をインタビュアー相手にしていました。そしてインタビュアーも、『そうですよねぇ・・・』と相槌。
「言いたいことがあるのなら、ちゃんと言う。」のは、論理的にも当然のことですし、現実的にも必要なこと。
しかし、ことは単純ではない。
ダメダメ家庭は被害者意識が強い・・・このことは、このメールマガジンで明確に言っています。被害者意識が強いので、それこそ子育てだって親である自分がこうむった被害と認識している。そしてダメダメな親は「自分こそが一番かわいそうな人間なんだ!」と確信している。
自分こそが一番かわいそうと思っているので、自分よりも恵まれている人間の意向など、聞く気もない。当然のこととして、子供の意向などにも関心がない。
ダメダメな親が自分の子供に対して抱くのは、「コイツのせいで・・・ワタシはこんな目に・・・」という犯人認定の心理だけ。
しかし、子供だって、子供なりの意向を持っているのは当然のこと。
じゃあ、「言いたいことがあるのなら、ちゃんと言う。」という日本国認定の原則?にしたがって、ダメダメ家庭の子供が、親に対して、自分の意向を伝えたらどうなるの?
こうなると、ダメダメな親は立腹することになる。
そもそも、子供は親である自分より恵まれている存在であると確信しているんだから、そんな「自分よりも恵まれている」存在の意向を、「一番かわいそうな」自分がサポートする義務はないじゃないの?そして「また、面倒を持ってきて・・・」「コイツのせいで、面倒な目に・・・」と子供に対し怒り出し、結局は「いったい誰のために、こんな苦労をしていると思っているんだ?!」と逆ギレするだけ。まあ、首相となった麻生さんに直接文句を言ったら、どうなったのか?やっぱり逆ギレしたでしょ?ダメダメというよりも単なる無能の麻生さんでもその調子なんだから、ダメダメ家庭では子供は親に文句なんて言えませんよ。北朝鮮の民衆に対して『言いたいことがあるのなら、将軍様に対してちゃんと言え!』と要求することは、人道的に外れているでしょ?
ダメダメ家庭の子供に対しても、そんな要求は現実的ではないんですね。
つまり、子供としてみれば、自分の意向を親に伝えると、面倒な事態になるだけ。このようなことは、困りごとを相談しても同じこと。
「自分こそが一番かわいそう。」だと思っている親に対して、子供の困りごとを伝えても、「そんなことで、何を困っているんだ?ワタシなんか、もっとかわいそうなんだぞ!」とイヤミを言われるだけ。
つまり「言いたいことがあるのなら、ちゃんと言う。」という一般的な原則はともかくとして、ダメダメ家庭においては、「言ってしまった段階」で面倒なことになってしまう。
と言うことで、子供も親に対して何も言わなくなる。
意向を伝えても面倒になるだけなので、そんな子供は、意向そのものを持たなくなる。
ダンテが言うように「この門より入るもの、希望を捨てよ!」にならざるを得ない。
このようなことは、以前にも、このメールマガジンで色々なスタイルで書いております。
マトモ家庭においては「言いたいことがあるのなら、ちゃんと言う。」原則が成立しているわけですが、ダメダメ家庭においては成立してない。
そして、世の中でトラブルを起こすのは、ダメダメ家庭出身者でしょ?
つまり、トラブルが発生している領域では、「言いたいことがあっても、言えない。」という常識の中で育ってきた人たちが主流なんですね。だからこそトラブルを考える際には、「言っていること」「していること」から考えるのではなく、「言おうとしないこと」「しようとしないこと」を考える必要があるわけです。
そんな人たちも、自分の意向や希望は言えなくても、自分の被害は言えたりする。それこそ、その人の親がそうであったように。
当事者意識がないダメダメ家庭においては、「達成したいもの」がない。だからお互いの意向を伝え合うことはない。しかし、被害者意識が強いので、被害は認識している。だからお互いの被害を主張し合うことになる。
「オマエを育てるために、ワタシの人生を棒に振った!」
「オマエよりも、ワタシの方がもっとかわいそうなんだ!」
そんな被害の主張が飛び交っている。
そして、「どっちの被害が大きいのか?」競争している。
そしてより被害が大きい方がランクが高く、一番「かわいそう」とされた人間が、一番序列が高いことになる。
つまり、ダメダメ家庭においては、「言いたいことがあるのなら、相手に分かりやすく言う。」のではなく、「被害を受けたら、声高に主張する。」という状態になっているわけです。
そんな状態の中で育ってきた人が、クレーマーになったり、市民運動の活動家になったりするのは当然でしょ?
一般論ばかりだとわかりにくいので、子供の意向を言わせないパターンの実例をあげてみましょう。
たとえば、以前より言及することがある歯並びの問題ですが、ダメダメ家庭では、子供から『自分の歯並びを矯正したい!』と言えない雰囲気となっている。だってダメダメな親は常日頃からこんなグチばかり。
「ウチはそんな贅沢をする余裕はないんだ!」
子供としては、こんな雰囲気では、とてもじゃないけど、自分の歯並びの矯正なんて頼めないでしょ?しかし、そんなダメダメな親は「贅沢をする余裕」はなくても、子作りはする。
頻繁に書いていますが、ダメダメな親は、子供から受け取ることを考え、子供に与えることは考えない。いわば、道具として子供を見ているわけです。
以前に起こった岡山駅での突き落とし事件でも、あの加害者の青年の親は、自分の子供に自分の意向を言わせない雰囲気だったでしょ? だから子供の希望なんて何も知らない親だったでしょ?
あるいは、未成年の女の子が妊娠して、嬰児を殺害してしまう事件がありますが、そんな女の子の家庭は、まさに意向や困りごとを「言わせない」家庭でしょ? だから娘の妊娠なんて何も知らない親だったりするでしょ?
そんな親は、やたら下を見せたがるもの。自分たちよりみじめな存在を、子供に見せて安心させたがるわけ。それについては、以前に「下には下がある」というお題で配信しております。「こんなに下があるんだから、オマエは幸福なんだ!」「オマエは幸福なんだから、ワタシに問題を持ち込むな!」そう言いたいわけ。それこそ、この手のダメダメな親は、二言目には「食べるものも食べられないアフリカの子供たちよりもオマエは幸せなんだ!」と主張する。しかし、逆に言うと、ダメダメ家庭の子供は、アフリカの子供と比較できるレヴェルというわけです。
あるいは、わざわざ病院などで不幸な人を見せたりする。それこそ以前にも言及いたしましたが、原爆ドームのような不幸満載の施設にわざわざ連れて行ったりする。あるいは、ダメダメな親は、「オマエは親に殺されなくて幸せモノだなぁ・・・」と、殺さないことへの感謝を子供に要求する始末。「親から殺されないことを感謝しろ!」と主張する親に対して、何か頼み事なんてできるの?ヘタに頼み事をしたら、親に殺されちゃいますよ。
そんな雰囲気の中で、自分より下を見て安心する習性がつくので、長じた後にはボランティアをするようになる。あるいは、インターネットの掲示板にたむろして誰かを揶揄して「イタイ」と書き込んで大喜びするようになってしまう。自分より下の存在を見ないと禁断症状が起こってしまう。
それこそ、そんな人が親になったら、ボランティア活動などで仕入れた新鮮な不幸ネタを、子供に対して語ることになる。そんな不幸話ばかり聞かされたら、子供だって要望は言えないでしょ?
そんな人間は、ご立派なご高説が大好き。
「人間は生きているだけで価値があるんだ!」なんて言葉は、この手の、子供に「言わせない」親がよく言うセリフです。ただ生きてさえすれば、それでOKなんだから、それ以上は何もする必要はないということでしょ?「余計なことをして、親に面倒をかけるな!」ダメダメな親としては、そう言いたいわけ。これでは、歯並びの矯正どころか、「余計な頼み事」なんて持ちかけられませんよ。
そんな人は現実を見せられると逆上してしまう。それこそトルストイ描く「アンナ・カレーニナ」のように、「私はそんなものは見たくない!」と、すぐに逆上する。何かを聞かされて、スグに逆上する姿を見ているんだから、周囲としても、そんな人には怖くて何も言えませんよ。
「ワタシは見たくない!」なんて逆上する姿は、それこそアンナ・カレーニナのご主人のアレクセイも同じです。陳情者が泣き出すと逆上するというキャラ設定でした。いわば困った姿を見たくないわけ。自分が見たくないのであって、将来は、その陳情者が困ることになっても、あるいは、別のところで困るのなら、それでいい。「ワタシの前で、困っている姿を見せるな!」と命令しているだけ。
そんな人は、内心では、「ほんとうは・・・ワタシの方がもっとかわいそうなのに・・・」と思っているわけです。見たくない、知りたくない、考えたくないと思っているので、不都合な現実を見せられると、「ああ!もう放っておいてくれ!」「ああ!鬱陶しい!」と逆ギレするだけ。
当然のこととして、子供に対して「ワタシの前では笑顔でいろ!」と命令する。
そうして、「作らせた」笑顔に囲まれて「ウチは何も問題がない家庭だ!」と豪語することになる。
そうして、周囲にアドヴァイスしたり、ボランティア活動をしたりする。
ボランティア活動をして、困っている人のところに出かけ、「恵んでやって」とりあえず笑顔を作らせ、「ああ、ワタシって、なんていい人なの!」と自画自賛。しかし、簡単に笑顔を作らせることができない深刻な状況だったら、さっさとトンズラしてしまう。
そんな人は、事態を解決するのではなく、とりあえずの終結があるだけ。とりあえず自分が考えなくてもいい状態を獲得する・・・それがダメダメ人間の終結となる。だから、実際問題としては何も解決してない。そんな人は、誰かを犯人認定して、「アイツが全部悪いんだ!」という形で自分を納得させてオシマイにしてしまう。だからつるし上げが好き。
日頃からつるし上げをしている人に、子供だって何も言えないでしょ?
そんな人は、困りごとを言わせないための、物言いを駆使するもの。
それこそ、「アナタを信じているぞ!」なんてご立派な言葉を使って、子供の問題から逃避する。
信じているのはともかく、じゃあ、どのような根拠で信じているの?何を信じているの?
そんな「形だけの」「一方的な」メッセージは、「ワタシに相談するな!」というメッセージのヴァリエーションなんですね。だから、後になって、「裏切られた!」と大騒ぎするものでしょ?
本当に信じているのなら、黙って信じていればいいだけ。「信じているぞ!」と言うよりも、「困りごとがあったら、いつでも言いなさい!」というのが親としてのスジでしょ?しかし、本音では子供から困りごとを持ちかけてほしくはないわけです。
信頼というものは、情報および思考に基づいている。別の言い方をすると、相互理解があるからこそ、信頼関係となるわけです。
しかし、「信じているぞ!」という宣言は、情報も思考も理解も判断もないでしょ?
むしろ、情報を見たくない、思考がイヤという自己逃避で現実逃避の発想なんですね。いわば判断逃避のための決めつけの宣言であり、思考停止のための封印を貼り付けただけと言えるわけです。逆説的な言い方になりますが、「信頼」というのが理解できないからこそ、「オマエを信じているぞ!」という言い回しを使うわけです。
あるいは、言わせない物言いとしては、「言わなくても分かる」なんて物言いもポピュラーです。
「言わなくても分かる」はいいとして、「どんなことを、言わなくても分かっているの?」。その目的語が重要でしょ?それを明確に説明できない人に限って、この「言わなくても分かる」なんてありがたい物言いを使ったりするものでしょ?
「言わなくても分かる」わけだから、言わせない大義名分となり、会話から解放されることになる。要は聞きたくないわけです。
親としては、子供から問題を持ち込まれたくないだけ。子供の問題を見たくないだけ。
以前にも言及いたしましたが、ソクラテスに「重要なことは生きることではなく、よく生きることだ!」という言葉がありますが、その言葉をモディファイすると「重要なのは、ただ親になることではなく、よい親になることだ!」となります。結果はともかく、その努力はしないとね。
しかし、ダメダメな親は「産んでやったことを感謝しろ!」「殺さないことを感謝しろ!」「親がいるだけでもありがたいと思え!」と子供に命令するだけ。よい親になるつもりはさらさらない。親であればそれでオシマイと確信している。よい親になるつもりがないだけでなく、何回も書きますが親になった被害を考え続けている。
だからこそ、子供の意向などには配慮する発想そのものがない。
しかし、そんな状況だからこそ、子供の側からトラブルが起こることは、本来なら誰でもわかること。
そして、小さなトラブルが発生しても、トラブルを見ないという対処しかできないがゆえに、トラブルが蓄積され、結局は大爆発することになってしまう。
本質的な解決のためには、ちゃんと見て、考えることが必要でしょ?
たとえば、天然痘の撲滅のためには、みんながワクチンを接種する必要がありました。ちゃんと認識し、対処することが必要になるわけです。その積み重ねの結果として根絶となったわけでしょ?
しかし、ダメダメな人は見ないこと、考えないこと、忘れることしか対処の方法がない。実質的には何も解決しないから、ますます見ないようになる。
課題や問題点を見せようとする人がいると、猛然と反抗する。普段から思考を抑圧しているので、逆上時にその抑圧が爆発する。だからこそ、そんな人に対しては、ますます何も言えなくなる。
そんな人は、言われてしまうと困ってしまうので、「語る資格」にこだわることになる。
それこそ、「大学で世界情勢を勉強していないと、現在の世界情勢について語る資格はない。」とか、「世界中を旅行していないと、この○○という映画について語る資格はない。」とか、「スタンダールの権威でないと、『赤と黒』を翻訳してはいけない。」とか、「オマエにはこんなメールマガジンを発行する資格はない。」とか、「日本人は韓国の問題を語る資格はない。」とかで、いわば議論の発生段階で抑えようとすることになる。
本来なら、出された見解が気に入らないのなら、それ以上の的確な見解を自分で出せばいいし、トンチンカンが意見が出てきたら、失笑すれば済むだけじゃないの?
しかし、自分で考えることから逃避する人間にしてみれば、発生段階で抑えないと怖いわけ。それこそ「こんにゃくゼリー」を買わないという判断すらできない人間なんだから、発生段階での排除を志向するのも当然といえば当然のこと。考えたくない、選択したくないがゆえに、選択肢が増えるのはイヤだし、恐怖ですらある。
結局は、自分に都合が悪いものを見たくないだけなんですね。何も言わせたくないわけ。
そして、いったん言われてしまったら、権威主義的に評価する。
それこそ、子供の問題だったら、児童心理学とかの権威付けで評価する。しかし、目の前にいる自分の子供の話はまったく聞こうとしない。
子供が問題を起こして、その解決法を、やっぱり権威に求める。しかし、やっぱり子供の話は聞かない。そんな流れは、長崎県でいつもやっていることでしょ?
(管理者注:「長崎の事件の手記」を参照)
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/06-06/06-06-05.htm
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/05-06/05-06-10.htm
権威主義的に考える人にしてみれば、「子供は子供の問題について語る資格はない。」という発想になっている。だって、子供は児童心理学を習得していないでしょ?だから、当事者たる子供の意向を聞こうともしないし、子供が子供の意向を語ることを妨害する。
しかし、だからこそ、事件が多発することは、本来なら子供でもわかること。
そんな人は、子供の話を聞かないための、文章を求め、子供の問題を見ないための、文章を求め、子供自身の気持ちを言わせないための、文章を求めるもの。かと言って、「自分で考え対処する必要がある。」と思わない人に読解力があるわけがない。結局は、自分勝手に文章を読んで「ああ!ワタシたちって、やっぱりかわいそうなのね!この人もそう言っているわ!」と勝手に喜んでいるだけ。
自分で判断することから逃避している人は、たとえばメールマガジンの内容についての判断も購読者数を参考にするものです。私の経験上になりますが、購読者数に言及する人は、後になって必ず逆上するものなんですよ。それだけ、自分で判断するのが怖いんでしょうね。文章自体から判断することを抑圧しているんでしょう。私としては、やり取りにおいて購読者数の話題が出てきた段階で、「この人・・・いつ逆上するのかなぁ・・・」と思っちゃうんですよ。まあ、現実的には1週間以内に必ず逆上しますよ。
まあ、おかげさまで、どうでもいいノウハウは豊富になってきましたよ。
語る資格にこだわる人は、「いったん言われてしまったら、どのように対処するのか?」という点において、お約束的な方法論を持っているわけです。どうやって「流してしまうのか?」という点について、自分で考えることなくシステマティクに対処できるものなんですね。
メールマガジンの購読者数も、いわば、「流すための方法論」となっているわけです。
逆に言うと、その手の方法論を常備しているということは、人の話を聞いていない人ということも見えてくるわけです。
まさに、都合の悪い言葉が出てきたら、とっておきの「流す」ための理屈を持ち出し、そして、当人自身は逆上して、思考停止となり、これ以上聞くことから逃避してしまう。
そんな「聞かない」ための方法論が確立している人と一緒に暮らしている子供が、フランクな会話をしているわけがないでしょ?
ダメダメ人間は、当事者意識がもともとないので、現実を改善するという発想はない。
現実と向き合うにしても、「べき論」を持ち出し、スグに政治などなどの問題にしてしまう。
自分自身の現状についての認識においても、同じこと。不都合な事態であることを認めると、自分で対処する必要がある。自分を抑圧している人は、それが不快。
だから、自分は申し分のない幸福状態だと自分を騙す。
「わたしたちは幸福よ!」と先制的な幸福主張をして、自分の問題から目をそらす儀式とする。そんな人に対して、その人の子供は困りごとを相談できるの?だって、相談する前から「ワタシたちは幸福よ!」と決定されてしまっているわけですからね。それに、そんなことを言い出す人は、顔の表情だって「いっちゃっている」ものでしょ?そんな人に対して話しかけることなんてできませんよ。
そして、そのような「知りたくない」「見たくない」「考えたくない」という逃避のスタイルはスパイラル的に進行することになる。
子供のことを知ろうとしない → だから、子供も親に何も話さない → 子供の現状について何も知らないので、子供の話を間接的に聞いてもさっぱりわからない → わからないから、ますます興味がなくなる → 興味がないから、ますます聞こうとしない →
聞こうとしない相手に話しても虚しいだけなので、子供もますます話さなくなる・・・と、スパイラル的に進行することになる。
考えることから逃避するんだから、丁寧に説明されると、逆にプレッシャーになってしまう。まさに「見せられている」恐怖を感じてしまう。説明されることから逃避し、自分では何も考えないんだから、そんな人の見解は、実に軽い。通りのいいありきたりなご高説を消費しているだけ。そんな人の文章は、その軽さですぐにわかるものなんですよ。その軽さは軽妙洒脱というニュアンスではなく、どうしても分かってほしいという気迫のなさや安直さが文章から漂っているんですね。
逆に言うと、その軽さから、「日頃から人の話を聞いてない」ところが見えてくるわけです。
説明されること自体が怖いので、やり取りの際に、質問する際にも、回答を引き出すような質問ではない。本質的には、自身で考えたくないので、相手から説明を受けたくない。だから、「こうすべき!」などとべき論での強圧的な物言いになってしまう。あるいは、「どうして、そんなことをしたんだ?」という文言的には疑問形で、意味的には否定形の物言いが頻発する。いわば、会話が発展しない物言いをするわけ。
以前に、このメールマガジンで、「書かない人の意向」というお題で文章を配信しております。世の中の多くの文章は、文章を書ける人によって書かれている。
だから、文章を書けない人の気持ちを伝えた文章は量的に非常に少なく、そんな人の意向は無視されやすい・・・そんな内容でした。
その折の文章は、「文章を書く」技法的なものに焦点を当てた文章です。
ダメダメ家庭においては、子供は自分自身を抑圧するようになり、自分の意向を表現する意欲がないので、当然のこととして、表現の能力も付かないことになる。
文章を書くに当たっては、ある程度の、技術も必要になるでしょう。ある種の客観的な表現力が必要になってきますよ。
しかし、本来は、「言いたいことがあるのなら、ちゃんと言う。」くらいのことは、誰でもできることでしょ?
しかし、ダメダメ家庭においては、子供が自分自身を抑圧せざるを得ない状況であり、子供の意向を言わせないようにするわけですし、伝えたい意向そのものを抑えるようにしてしまうわけです。
文章を書けない人の意向が無視されるように、「言いたいことがあるのなら、ちゃんと言う。」ことができない人の意向も、当然のこととして無視される。
しかし、世の中のトラブルが、その手の人によって起こされていることを考えれば、その手の人に対する理解は必要になってくるわけです。言えない人であるがゆえに、その「表現手段」は、フィジカルな方法になるわけですから注意が必要なんですね。
以前に取り上げたエーリッヒ・フロムが言う「破壊性は生きられない生命の爆発である。」という言葉をモディファイすると、「過激な表現手段は、伝えられない意向の爆発である。」とも言えるわけです。
言われないから、あの人の気持ちがわからない・・・それは、当然のことですが、注意しないと、そんな人によって、犯罪の被害者になってしまう・・・現実はそうなっているわけです。
麻生さんも・・・マンガばかり読んでいたので、そのようなことが分からないのかもしれませんが、本来は、そんな点に配慮しないと、社会を統率できないわけですし、当然のこととして、様々なトラブルに対する理解も不十分なものになってしまう。
前にも書いておりますが、「アンナ・カレーニナ」における主人公のアンナがスグに逆上する人間でした。
逆上することによって、自分で認識し、判断することから逃避してしまう。
それに対し、「アンナ・カレーニナ」におけるサブキャラと言えるキティという女性は、ちゃんと認識し、判断する女性です。
キティは、自分の判断を踏まえて行動し、結果をチェックし、そして、次の判断のための材料を集め、その積み重ねにより、判断の材料を集める技術や判断能力も向上する。そうやってスパイラル的に向上していくことになる。
それに対しアンナの認識はあら探しばかり。
「あら」を探して、「あの○○には、こんな欠点がある!だから、ワタシはうまくいかないんだ!ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と自分を憐れんでいるばかり。
そんな人に対して何を言ってもムダ。ムダというか危険なだけ。
だからこそ、そんな環境に育った子供も、親に対して何も言わなくなってしまう。
ダメダメな親なり、ダメダメな環境では、子供に何も語らせないわけです。
直接的な要求によって、子供に言わせなかったり、いわば、子育てによる被害者という後姿を見せることで言わせないようにしたりする。
だからこそ、ダメダメ家庭の問題を理解するためには、「言おうとしないこと」を見出すことが絶対に必要になるわけです。
我が子を愛さない親はいない(2003年12月26日)
一見とおりのいい、倫理的な視点に立った言葉や一般論は、反論を許さないだけに、取り返しのつかない結果を招きうる、という記事です。「我が子を愛さない親はいない」という言い回しも、そのような言葉のひとつですが、現実は、児童虐待の犠牲となるこどもが後を絶ちません。このような言葉に接したときは、「とおりのいい言葉を鵜呑みにして思考停止に陥ることなく、言葉にならない真意を洞察すること」が重要であると思います。
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/03-12/03-12-26.htm
(以下本文)
「自分の子を愛さない親はいないモンだ!何か問題があったら、家族の間で話し合ったらどうなの?」
子供が家庭内で困ったことがあった際に、周囲の大人に相談を持ちかけることもあるでしょう。相談してきた子供に対して上記の言葉でアドヴァイスする大人が結構いますよね?
以前に、たまたま家庭問題に関するテレビ番組を見ていたら、やっぱり良識派の代表として出てきたであろう芸能人が、この「お決まり」のセリフを言っていました。
一見素晴らしいアドヴァイスに見えると思いますが、実は子供を一番追い込むセリフであるわけです。
そんなことを書くと、「何故?」と思われ方もいらっしゃるでしょう。
大体において、この「自分の子を愛さない親はいないから、家族で話し合ったらどうか?」という言葉を受けて、実際に家族で話をする子供が一体何%くらいいるでしょうか?家族の間で色々な行き違いがあり、家族の間ではやり取りができないから、わざわざ他の人に相談しているのに、このセリフを言うことは実質上の門前払いと同じであるわけです。
多分、良識派はそのようなことを考えない人なのでしょうね。
たとえば、その相談を持ちかけた子供が家庭内でフィジカルに暴力を振るわれているような場合には、「親と話し合え!」という言葉を返すことによって、「さっさとクタバリやがれ!このクソガキ!!」と言う直接的な言葉より、厳しい言葉と言えるわけです。だって、親切そうな真顔でやっている分、余計にタチが悪いんですね。
フィジカルな暴力は非合法ですが、フィジカルな暴力の場に押し戻すことは合法的ですからね。
それこそ、北朝鮮から命からがら逃げ出してきた人に対して、ちょっと食料を提供して、「これからは故郷の北朝鮮で仲良く暮すんだよ!お幸せに!」などと笑顔で語りかけたら、そんな人が一番の外道でしょ?あるいは、家庭の問題において、フィジカルな暴力なら、まだ、相談もしやすいわけですが、それこそ性的な虐待だったら、笑顔で門前払いなんて、鬼畜そのものですよ。
一見、正論に見える言葉でも、それをダメダメ家庭にそのまま当てはめると、逆効果になってしまうわけ。
別の言い方ですと、この良識溢れるセリフによると、「すべての親は自分の子供を愛している。」わけですので「家族の問題の発生はもっぱら子供の側にある。」・・・と言っていることになるわけですよね?
「親の愛を受け止められない」子供の側に問題があるんだ!全くケシカラン子供だ!親御さんがお気の毒だ!!
・・・良識派のご高説によるとそうなっちゃいますよね?
スウェーデンのイングマル・ベルイマンが脚本を書いた映画「愛の風景」で、主人公の青年の母親が「あの子を愛せない私をお許しください。」と神に祈るシーンがありました。
実際には、そうですよね?すべての親が自分の子供を愛せる・・・というものではないわけです。むしろその母親は自分の子を愛していない自分を自覚している分だけ、マシといえることもあるわけです。
勿論のこと、ほとんどの親は自分の子供に対して愛情を持っているでしょう。
しかし、家族に問題があるダメダメ家庭の場合は、必ずしも絶対の前提条件とは言えない。
良識派自身が自分の子へ愛情があるからと言って、他人がその子供に愛情があるとは断定できないわけです。
あるいは、愛情と依存を混同している場合も多い。
「オマエしかいない!」と子供にすがりつくのは、子供に対する愛情ではなく、単なる依存でしょ?しかし、ボンクラな人は、依存関係を、愛情と誤認してしまう。
相談を受けた側が、親が子供に愛情を持っていることを前提に話を進めてしまうので、相談を持ちかけた子供は、親からの日頃のプレッシャーと、アドヴァイスした良識派からのプレッシャーでダブルバインドの状態に陥るわけです。
家族に問題があるから相談を持ち掛けたのに、悪いのは親の愛情を受け入れられない子供の方。このように追い詰められた子供がどうなってしまうのかについては言うまでもないでしょう?
ですので、テレビでの放映された「自分の子を愛さない親はいないものだ。何か問題があったら、家族で話し合ったらどう?」と言う良識溢れる発言によって、自ら命を絶った子供も少なからずいることでしょう。何と言っても、子供にとっては一番キツイ言葉なのですからね。
よくテレビでこんな殺人的な言葉を言えるなぁ・・・と、この私も絶句したものでした。
他人からのこのセリフが大きな効果を持つように、親自らが、このセリフを使うことは、より一層効果があるわけです。
親の方から、「親たるものは我が子を愛している。うまくいかないのはすべて子供のせい。」このように指摘したら、子供にしてみれば、全く出口なしの状況に置かれることになります。
言うまでもなく、親として、この良識溢れるセリフを発言することは合法的・・・というよりステータスといえるほどです。良識派人間のレッテルがもらえるわけですので。
ヘタをすれば、「愛され方が悪い」あるいは「親の愛の受け止め方が悪い」子供に対して、厳しい指導をするようになってしまう。
「子供を愛さない親はいない」わけだから、子供に対して厳しい指導をするのは、論理的であり、かつ、「良識的」でしょ?
その結果として、子供が虐待死してしまっても、そんな指導を実践した親としては、それは、まさに、その親の良識の結果となっているわけ。
「子供を愛さない親はいない。」という言葉は、別の言い方をすると、「親に懐かない子供は悪い子供。」となり、まさに児童虐待の現場でおなじみの、「懐かないから殴った。」という言葉になってしまうわけ。
「子供が懐かないから殴った。」という物言いも、「自分の子供を愛さない親はいない。」という言葉も、言い方は違っていても、発想の本質は同じなんですよ。
「自分の子供を愛さない親はいない。」と二重否定的な表現のスタイルでは言えても、「自分は、親として、オマエのことを大切に思っている。」と単純な肯定のスタイルでは言えない。
実際に、親が語るそんな御高説を聞いた子供の側は、「じゃあアンタ自身はボクに愛情をもっているの?」と怪訝に思うだけ。もし、その親が自分の子供に愛情を持っていれば、何も一般論などは使わないで、「オマエも、何か困ったことがあったら、何でもワタシに相談してくれ!」と子供に対して直接的に言いますよ。
それが言えないからこそ、反論されにくい一般論に逃げているわけ。
本来は、一番端的に言えないことから色々と見えてくるものですが、ダメダメ家庭においても、あるいはダメダメ家庭の周囲にしてみても、自分自身から逃避していて、自分の問題は見えていない。
自己逃避の人間は、「子供を愛さない親はいない」というスタイルのような、自分個人の問題を超越した一般論しか言えないわけ。
それに、「自分の子供を愛さない親はいない。」と語る人は、「じゃあ、何のせいで、うまくいかないのか?」という犯人探しの心理に陥りやすい。
だから、何かと、あら探しばかり。
一般的にはその対象が、身近にいる自分の子供になるわけです。
逆説的になりますが、「自分の子供を愛さない親はいない。」からこそ、自分の子供のあら探しをして、「自分の子供には、こんな欠点がある。だから親であるワタシは、自分の子供を愛せないんだ!悪いのは全部子供のせいだ!ああ!ワタシって、なんてかわいそうなんだ?!」となってしまうわけ。
言われてみれば、実に、筋道の通った論理でしょ?
そして、ダメダメ家庭においては、現実に起こっている流れなんですね。
自分の子供を犯人認定するケース以外にも、時代とか政府とかを犯人認定することになる。
そして「あ~あ、悪い時代だなぁ・・・」「政府がもっとしっかりしてくれないと、ワタシは子供を愛せないわ!」と嘆くことになる。
だって、「自分の子供を愛さない親はいない。」ということは、どんな親も愛情の面においては欠点がないということでしょ?だから、自分以外のものを犯人として設定し、「悪いのは全部○○のせいだ!」という犯人認定の心理の土壌となってしまうわけ。
ダメダメ家庭出身の子供が立ち直る?あるいは、少しはマシになるためには絶対条件がありますよね?
それは自分の家庭がダメダメであると認めること。
そして自分の親を嫌うこと。
「自分の親を嫌ってもいい。」と子供が自分を許すことから、子供の新たな人生?が始まるわけで・・・そのようなダメダメ家庭の子供の再出発を阻害する言葉として、この「自分の子を愛さない親はいない。」というご高説以上の言葉はあるでしょうか?
しかし、この「自分の子供を愛さない親はいない。」という言葉は「とおり」がいい。世間受けが抜群ですよね?
しかし、あらゆる言葉の中で一番悪質な言葉であるわけです。結果的に人を殺しちゃうんですからね。
結局は相手のことを何も考えていなくて、自分自身のことしか考えていないわけですからね、そのような良識派さんは・・・
学術的な視点(2009年7月13日)
「ダメダメ家庭の目次録」の総論的な記事です。
機能不全家族の問題を考えるにあたっては、集団になんらかの介入を行ってデータを取り、解析して結論を得るという、学術的な視点からは問題を理解することは困難なのです。あえて学術的な視点から理解したいのであれば、集団に対してネガティブな介入を行う必要がありますが、倫理的に許される研究には到底なりえないでしょう。ですから、学術的な正しさにこだわると、機能不全家族の問題は何も見えてこないのです。
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/09-07/09-07-13.html
(以下本文)
このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」は、ダメダメ家庭(日本語的に、より正確に言うと「機能不全家庭」)の問題を考えたメールマガジンですが、どっちかと言うと、その視点は芸術的な視点であって、学術的な視点ではありません。
芸術的な視点、あるいは芸術家による見方ということで、映画や文芸作品などの芸術作品を取り上げ、そんな作品の中において、「ダメダメ家庭の問題点がどのように描かれているのか?」「作り手はどんな視点でダメダメ家庭の問題を考えているのか?」そんな視点の文章を配信することもあります。
もちろん、このメールマガジンは人間の心理の問題を扱っていますから、私とは違った方法論と言える、従来の心理学を使った学術的な、別の言い方をすると科学的なアプローチが可能でしょう。
私だって、その手の心理学の本を読んだこともあります。特に、現在、集中的に取り上げております、「うつろな人」「他者の心理的な認識」の問題を考えるに当たって、心理学の一分野である発達心理学の本を数冊読みました。一連の文章ではそこでの手法を取り上げておりますし、今後も適宜提示する予定です。ただ、その手の従来の心理学は、このダメダメ家庭の問題を考えるに際し、ある程度は有効であっても、その問題の中心的な面を突くということにはならないわけ。
そもそも、心理学は、まさに心の理(ことわり)の学問であって、自然科学と人文学の間にある学問。そもそもが境界領域的な学問と言えます。
心理学とは、心の問題を、客観性を持って記述する学問と言えるでしょう。だから実験や統計などの観察者の主観が介在しない手法によって説明していくことになる。しかし、それゆえに限界があるもの。
心理学の本を読むと、様々な実験が出てきます。
たとえば、こんな実験があったりします。
子供に積み木の課題を与えて、時間内に出来たら、大げさに褒めてあげる。
そんな実験をすれば、ほめることによる、心理的な効果が観察できることになりますよね?
多くの子供を観察すれば、ほめることによる効果を統計的に証明することが可能になりますし、長期的に観察すれば、「ほめて育てられた子供が何に関心を持つのか?」「どんな能動性を持つのか?」「感情的な安定性はどうなるのか?」など色々とわかることになるわけです。
もうちょっと実験を細かくすると、上記の実験だって、ほめ方にヴァリエーションを持たせることができる。言葉でほめるのか?頭をなでるのか?お菓子を与えるのか?
どんなほめ方がいいのかについては、実験結果を見ればわかることになりますよね?対象の子供だって年齢によってヴァリエーションを持たせることができる。あるいは、ほめる人が親なのか?見知らぬ人なのか?それによる違いも観察を重ねれば明らかになるでしょう。それを統計的に処理すれば、ある種の客観性に到達できる。
しかし、ダメダメ家庭の問題を考えるに当たっては、そんな実験とは方向性が違った実験が必要になるわけ。
それこそ、積み木の問題を、時間内に「出来なかったら」、しかりつける。
そんなパターンの実験になるわけ。そしてそのしかり方についても、蹴飛ばす、殴る、食事を抜く、傷つく言葉を言う、あるいは無視する・・・そんなヴァリエーションがあるでしょ?
そんな実験をすると、子供をしかることの効果が見えてくるわけですし、どんな罰の与え方が効果的か?あるいは、悪影響があるのか?それも、科学的に見えてくるわけ。
子供をほめることによる影響については、一般のマトモ家庭の子供を理解するのに役に立つでしょう。しかし、ダメダメ家庭の子供を理解するためには、しかったり、無視したりの影響を理解する実験が必要になるわけ。
学術的には、そんな実験によって、ダメダメ家庭の問題も、より理解しやすくなっていくでしょう。しかし、当然のこととして、そんな実験は倫理的に不可でしょ?
それこそ幼少時における環境影響を考えるにあたって、1卵生双生児の内の一人を、子供の要望に親が反応する環境、もう一人を真っ暗な地下牢に入れて、その差を見れば、環境などの後天的な要因が及ぼす影響も、明確に、そして客観的に見えてくるでしょう。
しかし、そんなことは不可能でしょ?そんな実験には誰も協力してくれませんよ。
あるいは、映画の「マイ・フェア・レイディ」において、ヒギンズ教授は、自分の考えを証明するために、ドブ板英語しか話せないイライザを引き取って、イライザに教育を施すことによって、一流のレイディに育てる「実験」をしましたが、それは、一流のレイディにする実験だからこそ、参加者も存在するし、実験も倫理的に可能。しかし、「産まれたばかりの子供を、殺人鬼に育て上げる。」実験は、参加者がいないし、倫理的に不可でしょ?しかし、そんな実験が達成できれば、まさにダメダメというものが、産まれた後の教育なり環境によって、作ることができる証明になるでしょ?
以前に言及した19世紀のフランスの殺人鬼ラスネールは、父親から「オマエは将来は、ギロチン行きだ!」と言われ続け、実際に殺人鬼になり、ギロチンに掛けられましたが、その父親は、自分の考えを証明するために実験したわけではないでしょう。あるいは、ラスネールの父親は、息子の脳の器質的な異常を検知して、そこから「ギロチン行き」を、推察したのではないでしょ?そもそも、子供がどうなろうと、どうでもいいと思っていたわけでしょ?「ギロチン行きだ!」というよりも、心理的には「子供が断頭台の露と消えようが、親であるオレには関係ない!」と思っていたわけでしょ?そんな環境だからこそ、子供もギロチン行きになったのでは?
ダメダメ家庭を考えるに必要な実験は、それこそ数年間地下牢に閉じ込められた人間の心理であり、周囲から無視され続けたり、罰を与え続けられた人間の心理。
つまり実験で検証できる心理とは別の心理を扱っているわけです。
既存の発達心理学というものは、一般の子供が、一般の親のもと、一般的に成長し、一般の大人になっていく・・・そんな過程を扱っているわけで、ダメダメ家庭では、そのまま適用ができないわけ。
それに心理の実験や統計となると、色々なファクターが絡んでくる。「原因→結果」とつながる単純な一対一の対応とは言えないわけ。
妊娠中にタバコを吸う親からは、幼児に不都合な事態が発生しやすい・・・その関係性が統計的に説明できても、幼児の不都合な事態が、親がタバコを吸うことから来ているのか?それとも、親がタバコを吸うくらいの心理的ストレスがあるから、それが幼児に悪影響を及ぼしているのか?それは、単純な統計からはわからない。タバコの毒物よりも、ストレスが影響しているのなら、ヘンに禁煙してますますストレスを溜め込むと、もっと胎児に悪影響を及ぼすことになってしまう。
タバコの毒物による影響を見るためには、その他の要因、たとえば心理的なストレス条件をそろえないといけない。そうなると、タバコを吸いたくもない妊娠中の女性に強制的にタバコを吸わすことで、タバコの毒による影響を見ることができることになる。
しかし、そんな実験に参加してくれる妊婦なんていないでしょうし、いてはダメでしょ?
妊娠中の飲酒の問題だって同じようなもの。そもそも妊娠中にも飲酒を続けるような母親は、たとえ無事に出産しても後々色々とありますよ。そのような、もともとのメンタルの問題や知的な資質の問題を取り入れていかないと、科学的な知見にはならない。
あるいは、実験や観察対象の親子だって、ダメダメとは距離があるもの。
そもそも子供の心理の実験に協力してくれるのは、子育てに対して関心が高く、知的水準が高い親ですよ。ところがダメダメ家庭の親は「自分は子育てという被害を子供から背負わされた、かわいそうな被害者」という自己認識。そもそも子供の心理の実験なんて協力してくれない。観察対象自体が、かなりレヴェルが高く、ダメダメとは言いがたい人なんだから、そんな親子の観察を通じて、どうやってダメダメの諸問題を顕在化するの?
あるいは、よく育児における父親の影響ということで、父親が育児に積極的に協力してくれる家庭の子供は知的レヴェルが高いとかで、そんな統計がでてきますよね?確かに父親が積極的に子育てに協力してくれれば、子供にとっていい影響が出るでしょう。しかし、それは父親による影響であると同時に、育児に積極的な男性を伴侶とした女性のファクターもあるでしょ?そもそもそれだけ「人を見る目」「将来ヴィジョン」があるんだから、母親となった場合の知的レヴェルも高いに決まっているじゃないの?そんな母親の子供が、知的レヴェルが高かったり、情緒の安定性が高いのは当然ですよ。どこかのカルト宗教のように、伴侶をくじ引きでランダムに選んだわけではないんですからね。
父親による影響を科学的に検証するためには、強制的に父親を取り除いて、母親としての資質の面をまず明確化する必要があるわけ。あるいは、伴侶をくじ引きなどでランダムに割り振る必要があるでしょう。しかし、そんな実験は学術的には有効でも、参加する人なんているわけないでしょ?
以前にも書きましたが、ダメダメ家庭では、結婚後になって、「ウチの亭主は結婚前からだらしなく、そして何事も非協力的だった・・・」なんて平気でグチったりするもの。結婚前からダメダメだった人と、そのまま結婚するような女性の子供の知的レヴェルは、そもそも遺伝的に問題の可能性がありますし、かなりの心理的抑圧があるのは確実でしょ?そんな母親に育てられた子供の問題は、父親の育児協力の問題というよりも、それ以前としてある母親の資質のファクターが大きいのでは?
ダメダメ家庭の問題を考えるにあたって、実験ができないし、多くの複合的な要因から、それぞれの影響を区別するのが難しい。
それに、以前より頻繁に書いていますが、ダメダメ家庭を考えるに当たって、「言っていること」「していること」から考えるよりも、「言おうとしないこと」「しようとしないこと」から考える必要があるわけ。
ダメダメ家庭の人間は、自分自身を抑圧している。
だから一番重要な要因ほど、言おうとしないわけ。
学術的な発想だったら、「言っていること」「していること」から様々な知見を得ることになるわけですが、そんな方法論では、ダメダメ家庭の問題は見えてこないわけ。
学術的である以上は、ある種の客観性が要求される。そうなると、誰でも認識できる「言っていること」「していること」を整理するのが、学術的には必要な態度。しかし、だからこそダメダメの理解から遠くなってしまう。
「その対象者が何を言っているのか?」については、客観性を持たせることができるでしょう。しかし、「何を言おうとしないのか?」その点については、観察者の主観的な判断が介在してしまうでしょ?しかし、「何を言おうとしないのか?」という点を見出さない限り、ダメダメの理解はありえないわけ。
それに、客観性を志向していて、「言っていること」「していること」を整理し検討する心理学的な手法はいいとして、子供がしている言動だって「ただ、周囲の人間の言動に合わせているだけ」の場合もある。まったくの幼児なら、そうでもないでしょうが、ダメダメにおいては、物心ついた段階で、周囲の人に合わせているだけの状態の場合もあるわけ。まさに感覚的な実在は認識できるので、その感覚からの情報に、判断なしに合わせることになる。
そんな状態になったら、たとえ、同じ行動をしていても、「能動的にそのことをしているのか?」「ただ、周囲に合わせて、受動的に、そのことをしているのか?」その区別を付けることが、その対象者の心理を考えるにあたって実に重要になるでしょ?ダメダメの領域においては、行動と心理は直結しないわけ。
しかし、観察対象となっている子供が「自分の主体的な意思でそうしているのか?」「周囲に合わせてどのように行動しているのか?」の判断は、どのように『客観的』に行うの?学術的という以上、主観性を排除したい。だから判断する人によって、結果が変わってしまうような判断はしたくない。
それに「どの程度、子供が主体的に行動しているのか?」という問題は「イチ、ゼロ」のデジタルの問題ではなく、何%というアナログの問題でしょ?それをどうやって評価し、計測していくの?
しかし、その判断を抜きにしてはダメダメの問題は扱えないわけ。
もしダメダメの問題を、より客観性を持って検討したいのなら、それこそ未成年の更正施設などの聞き取りをすれば、多くの事例が集まるでしょう。それを統計的に処理すれば、形の上では、それなりに客観的なデーターとなる。しかし、その場合でも、重要なことは語られないという点については、事件後の子供も事件前の子供と一緒。
「その人が何を語ろうとしないのか?」
その点について踏みこんでいかない限り、ダメダメの理解はありえないわけですし、その「語られない」感情を聞き取るためには、観察者の意欲だけではなく、ちょっと特別な洞察力も必要になってくる。
従来の心理学をマスターしただけでは難しいのでは?
それに心理というのは、ある種の「動的」な面を持っている。
心理というものは周囲の環境に適応していくわけ。まさにドストエフスキーがいうように「人間はどんな環境でも慣れるもの」。人間は肉体的な面だけでなく、心理的な面でも適応性を持っている。そして、その適応した心理による行動によって、周囲に影響を与え、そして周囲を変化させ、その周囲からまた影響を受ける。
たとえば、強圧的な親に育てられたら、自分の希望を抑圧するようになってしまう。いわば心理的な適応が起こるわけ。いわば強迫的に人に合わせる「いい子」になってしまい、それによる周囲からの高評価によって、自分自身で望んで自分自身をさらに抑圧してしまう。周囲からの高評価がなければ、そのような進行はない。つまり「こうなれば→こうなる。」という単純な因果律では語れない。
あるいは、スパイラル的に進行する場合も多い。母親が精神的に落ち着いていれば、子供も精神的に落ち着き、それによって、育児のストレスも比較的少なくてすむことになりますが、母親がイライラすれば、子供もストレスを抱え、落ち着きがなくなり、それによって、母親がますますイライラして・・・とスパイラル進行。
そんな、周囲の状況と心理の動的な面を考慮する必要があるわけ。
そのような適応による動的な面は、純粋に心理的な面だけでなく、脳の器質的な面にもあるもの。
それこそ、産まれたすぐから地下牢に押し込められたら、脳は器質的にも発達しないわけ。
よくニュースで出てきますが、狼やカモシカに育てられた人間の子供なんて例がありますよね?そんな子供の脳は、死後解剖すると、「一般」の生活をした人間の脳とは違っているもの。
脳だって使うから成長する面があるわけです。新生児の脳は300g~400g程度なんだから、その成長にあたっては、周囲の環境との動的な適応を踏まえたものになる。
だから、後になって脳の器質的な異常が発見されたと言っても、それが先天的なものか、周囲の環境からの適応によるものかは、明確に言えないわけ。
前にも書きましたが、動物実験によると、縦線ばかりの世界にいる猫は、横線を認識できないそう。横線を認識する脳の働きが、なくなってしまうわけ。環境が脳の器質的な問題を作るわけです。
実際に「アスペルガー症候群」とかで、脳の器質的な面がその原因として指摘されたりしている例もあるようですが、そのような症状の子供を持つ親の方と、実際にやり取りした経験から言わせていただくと・・・
「こんなやり取りばかりしていたら、ワタシだってアタマがヘンになるよ!」というもの。
そんな子供を持つ親の文章は、言葉はそれなりに並んでいても、何を言いたいのかについて、さっぱりわからない。このメールマガジンでよく使う表現だと「造花で作った見事なフラワーアレンジメント」状態。「レイアウトは整っているけど、だからと言って、結局は何が言いたいの?」そんな雰囲気。意味は繋がっていても、そこに意図がないわけ。その意図がさっぱりわからない。
この私の知的レヴェルでわからないんだから、子供はもっとわかりませんよ。それこそ「不思議の国のアリス」でのやり取りばかりしていたら、アタマがヘンになっちゃうでしょ?心理的にものすごいストレスですよ。一応は言葉が文法どおりに並んでいるので、子供にとってはなおのこと厄介。子供は「ボクが悪いのかな?」と自分で抱え込んでしまう。
そんなやり取りばかりだったら、脳の部位だって発達に異常をきたすのでは?
「脳の器質的な異常 → 心理的な異常」
そんな構図は、第3者には理解しやすいでしょうが、人の心理が持つ動的性質を考慮すれば、そんな単純には行かないわけ。心理も脳も、周囲の状況に適応してしまうわけ。
もちろん、器質的な面がまったくないというわけではないでしょう。しかし、器質的な観点からの理解は、とおりがよくても、適応という動的な面を合わせて考えると、単純にはいかないわけ。
それに、学術的に考察する心理は、存在するというか、周囲のものが認識できる心理。
しかし、存在しないというか、直接的に認識できない心理はどう観察し認識するの?
「子供を守ってあげたい。」という心理は、観察者にもそれなりに認識可能でしょう。
しかし、その気持ちの「なさ」は、どうやって観察者は認識するの?
それに心理というのは、数学でいうベクトルのようなもの。
方向があると同時に、強度もある。
子供を守って上げたいという心理だって、強度の違いが存在するでしょ?
100の強度と、0.1の強度では全然違いますよ。
しかし、そんなアナログな違いを抜きに、人の心理は扱えるの?
虐待の心理だと、「子供を守ってあげたい。」という心理と「子供をイジメたい。」という心理の方向の違いと言えるのかもしれませんが、ダメダメの問題だと「子供を守ってあげたい。」という方向性における強度の違いと言えるでしょう。その強度の違いに着目しないと、ダメダメの問題は見えてこないわけ。しかし、そんなアナログな違いに目をやると、どうしても観察者の主観的な判断が介在してしまい、科学的にはならないもの。
「子供を守ってあげたい。」という心理の、欠落や不足を、あるいは不十分さをどのように科学的に認識し、記述していくの?
しかし、まさにそんな観点にダメダメの理解はかかっているわけ。
客観性の枠を取り外さない限り、理解は難しい。
たとえば、子供を自殺させる親のキャラクターについての文章に対し、「どんな統計で・・・どれくらいのデーターで・・・どんな証拠で・・・」などと感情的に噛み付いている人がいましたが、そんなクレームを付けている人は、正式な統計がないと何も考えることはできないの?そもそも厚生労働省が発表した自殺の統計においては、残された遺書から、自殺理由を推測していますが、自殺の本当の理由なんて、自殺した当人にもわかっていないもの。遺書に正確に理由を書く必要もないでしょ?自殺に当たって「所轄官庁」と言える厚生労働省の許認可があるの?口頭試問でもあるの?口頭試問に合格したら、審査官がハンコをポンと押して「ヨシ!合格だ!キミは自殺してよし!」というシステムなら、そんな機関が発表した自殺の理由にも、それなりの根拠もあるでしょう。しかし、そうではないでしょ?客観的なデーターがないのなら、何も考えられないような人は、一生、そのような自殺問題について何も考えられませんよ。前にも書きましたが、その手の問題は客観性の元となる実験や観察ができない問題なんですからね。
大学合格に当たっての受験勉強について、合格者から聴取し統計を取った・・・そんなデーターだったら、価値があるでしょう。しかし、自殺者の自殺理由の統計なんて、意味はないものなんですね。
前にも書きましたが、一般の発達心理学は、一般の子供が、一般の親のもと、一般的に成長し、一般の大人になっていく・・・そんな過程を扱っています。もちろん、それは意味のある研究といえるのでしょうが、「どの箇所でコケると、その後の発達において、どんな悪影響がでるのか?」
それは、客観的な実験は不可能。
しかし、実験は不可能であっても、実際に起こっているのも確かでしょ?
学術的な視点で見えてくるのは、ノーマルな事例。学術的な手法に限定すると、見えなくなってしまうのがダメダメの問題。
ダメダメ家庭の問題を考えるにあたっては、科学的な視点から芸術的な視点へ・・・そんな視点の転換が必要になってくるのでは?
だから、科学的な客観性とは言えないでしょうが、芸術作品の方がある種の客観性につながるわけ。
当事者が「語ろうとしない」面を、あるいは、当人が語ることが出来ない心理を、文章などの第3者にも検証可能な手法で語っている。これについては、前回配信の文章で取り上げたカミュの「異邦人」などをお読みいただけると、実によくわかっていただけるでしょ?
あるいは、芸術の分野では、身近な子供を放っておいて、はるか彼方の困っている人へのサポートにいそしむ人たちを描いた作品が多くあります。
しかし、学術的にはその手の事例を考えたものはほとんどないのでは?
だって、学術的な研究をしている当人が、そんな面を持っているわけですしね。
学術的な分野では、観察者にとっての第3者の問題を検証していくわけですが、自分自身の問題を見出し、考えて、そして表現していくのは、芸術的な分野の仕事なんですよ。
学術的な手法だけだと、もっとも身近な問題が無視されてしまうことが発生しやすいわけ。
芸術作品とはいえないでしょうが、このメールマガジンの記述の正否は証明するのが難しいもの。このメールマガジンの記述の妥当性を検証するためには、「この事例については、この視点を取り入れると、理解しやすい。」という実践的な形での肯定形での証明とか、「否定する事実がない」という二重否定的な証明しかないでしょう。
しかし、人間の知を広げるためには、時にはそんな発想も必要なのでは?
「ないものをどのように見いだしていくのか?」
そんなことについては、客観的な方法なんて取れませんよ。
「正しさ」にこだわっているうちは、ダメダメの問題は何も見えてこないわけ。